大人の物差しを変えてみたら・・・
自分の物差し
最近の教育では、一つの問いに対して正解と捉える範囲が広くなりました。
言い方は適切ではないかもしれませんが、子どもたちの表現する行動を認めることができるようになったのでしょう。
それは良いとか悪いという観点ではなく、子どもの自主性を重んじながら個を認めるという当たり前のことだと感じます。
しかし、とかく学校では先生が意図したことを理解させようとします。家庭でも親の思うように子どもをしたいと思うもの。
それは、先生や親の身勝手な判断だけなのかもしれません。
つまり、先生や親の持っている物差しで子どもを捉え、測るようにしたいという思いが強いからなのです。
誰でも自分の物差しは持っています。それが自分の考えというものです。今までの経験で得た自分の物差しですから、決して良くないとは言えません。
その人の価値観から生み出された物差しだからです。
これは使い方を考えずに無暗に使ってしまうと、誰もを同じ位置に置こうととしているように思われます。果たして、同じ位置に子どもたちを置くことは良いことなのでしょうか?また、可能な事なのでしょうか?
一人の物差しで判断した正しいとすることを子どもたちに与えると、子どもたちはそれだけを正しいと思い続けるようになります。
よく先生が言ったから、親が言っているからなどの会話を聞きます。つまり、先生や親が言っているから正しいという観念が生まれるのです。
これを決して忘れてはいけません!
自分の言うことを子どもがどのように受け取っているのかを、今一度考える必要があるのです。
柔軟な思考を身に着ける
実は、大人にそれぞれの物差しがあるように子どもも物差しを持っています。
子どもの価値観に見合う物差しです。
大人は、これを大切にしなくてはいけません。
子どもも自分で考えているのですから、先生や親御さんの物差しと違うこともあるものです。
人はそれぞれの物差しを持ち、それで測ります。他人の物差しではなく、自分の物差しで!
すべての人の物差しが同じことはないことくらい、誰でも知っています。ですから、自分の物差しを絶対のものとするのは、とても危険なことなのです。
もっと柔軟性に富んだ物差しを持ちませんか?
伸び縮み自由であり、メモリも適宜変わってくる。
誰の目線で見るかを物差しに乗せてみます。大人ならこんなメモリになるが、子どもはちょっと違う・・・などと思えるようになるものです。
誰もが絶対的な物差しなど持ってはいません。
その人なりの解釈で物事を判断し、行動します。その時に、他人の物差しで測ると違いが見えることを知ってほしいのです。
色々な見方があり、考え方がある。それはすべて間違ってはいません。
正しいと捉えられる範囲は広がりました。色々な考え方から世界は広がり先々は明るくなるものです。
自分の小さな物差しに囚われるより、色々な人の物差しで測ることを知ると柔軟性が身につくでしょう。
子どもたちを小さく一つの形にまとめずに、様々な形に変化できるように育てるためには、大人が柔軟的な思考を持ち、楽しむことです。
物差しはイビツでも構わない。形にとらわれすぎる大人にならないように心を豊かに大きくするように自分以外の思考を受け入れてみてはどうでしょう。
きっと自分の物差しの感覚が変わると思います。
色々な物差しを知ること
先生や親の物差し、特に個人的な物差しで子どもたちを測ってはいないだろうか?
自分の物差しは絶対的なものではないということを大人は常に理解していないといけないということがお分かりになるかと思います。
人は自分の生き方を持っているもの。他と違って構わない。でも、他を否定することはできない。
それぞれの生き方、過ごし方があるように、考え方や見方、感じ方も違ってよいのです。
自分の物差しですべてを測ろうとせず、他の人の物差しを知り、それも認めることです。
大人も子どもも、柔軟性に富んだ物差しを持てるような世の中であれば、より楽しく面白いことが見えてくるはずです。
そのために、まず自分の物差しをよく知ることから始めてみてはどうでしょう。
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