未完成であること
先生としての自分
私たちは、日々の生活の中で何かしらを学び続けています。それを繰り返し行うことで自分が確実に獲得できたと言える状態になるものです。
しかし、経験として重ねてきたことに対しておごり高ぶることも・・・。
自分は知っている!自分はできる!という思いだけでやろうとしてしまうことを良しとしているのです。
教員として経験を重ね、それが自信となることは間違いありません。常に子どもたちに対して自分が正しいのだという思いを伝えることに終始していることはないでしょうか・・・。
先生としての自分という存在が、すでに完璧なのでしょうか?
人は未完成でいい
もちろん、子どもたちの前で自信なさげに振舞うことは良いとは思えません。
少なくとも、自信が自分に備わるような行動を心がけねばならないのです。
しかし、子どもたちからすれば先生は何でも知っている人だと思われることもあるでしょう。もし、質問されたことに対して、すぐに答えられない場合もあるのでは・・・。
そんな時、適当にごまかすことがよいのでしょうか?
それは、すでにお分かりかと思いますが知らないこと、わからないことははっきりとそのように答えることです。
そして、調べてみるなどを伝えます。また、一緒に考えてみようでもいいかもしれません。ただし、質問者が納得できるように対応することが絶対条件となります。
先生とて万能ではないこと。まだまだ大人でも知らないことがあるのだと子どもたちが理解してくれれば良いのです。
だからこそ、学ぶことが大切だということに気づいてくれるはずです。
誰でも、いつまでも知らないことに対して関心を持ち、学び続けることは大切なこと。
知らないことに気づいただけでも素敵なことですが、しっかりと知りたいという意思表示が質問をすることだと感じます。
先生としては、それをしっかり受け止めなければなりません。
質問内容に驚いたり、戸惑ったりするかもしれませんが、先生自身の学びにもつながっていることを忘れてはいけません。
子どもたちが成長する過程で、体も心も知識も未完成から少しずつ完成形に近づいていく時。
子どもばかりではなく、人は誰もが完成された状態には無いということです。
未完成だからこそ完成を目指したくなるのでしょう。
一つ一つのパーツを組み合わせて完成させるパズルのように、完成形が見えれば良いのですが・・・。
人はいつ完成できるのかわからないものです。そして、完成形など誰にも分らないはずです。
だからこそ面白い!興味深い!それが人というものです。
未完の状態であるのは子どもたちばかりではありません。
大人も常に完成する自分を描きながら学ぶことが求められるもの。
先生としての完成形もわからないはずです。
未完成の先生で良いのです!まだまだ先は長いのですから・・・。